Midnight Zoo #48
ふたりの晴香はおたがいを認めたわけではなく、また譲り合ったわけでもなく、ただそれぞれの思惑で、洗面台の前で横たわっている自分たちの身体を見下ろしていた。
さっきまでよりもわずかだが輪郭が薄くなってきている晴香が、身体の前に膝間づいた。
「まだ顔色は悪くなさそうね」
膝間づいた晴香はそっと横たわる身体の頬に手を伸ばした。
「何するのっ。触らないでよっ、わたしの身体なんだからっ」
やっと手に入れた自分の身体、その思いが膝間づいた晴香に対して言葉を荒立たせた。
「そうやって触って、自分が入り込もうとしているんでしょ」
言葉とともに、もうひとりの晴香は膝間づいている晴香を払いのけるように、見下ろしていた身体に覆いかぶさってきた。
「だめっっ」
膝間づいていた晴香は身体の頭部をかばうように両手で横たわる顔を包み込んだ。
そのとき、覆いかぶさってきた晴香はきっと気づかなかっただろう。
でも、顔を包み込もうとした晴香は、一瞬身体の顔が、口元がかすかに微笑んだ、いや、ほくそ笑んだのが目に入った。
ふたつの意識が同時に身体に入り込み、それぞれが主導権をとって、身体を目覚めさせようとしている。
ふたつの意識はもう譲ることはしない。
ーこれからはわたしの身体なんだから。
ーもともとわたしのものなのよ。
身体は床の上で、痙攣を起こし、こわばったり、ゆるんだりを細かく繰り返し始めた。
ーきっとこのままでは身体が壊れてしまう。
ふたりの晴香ともその恐怖を感じながらも、もはや譲ろうとはしなかった。
ーわたしを受け入れるのよ。これからはわたしと楽しむんだから。
ーお願い、壊れないで。もう一度わたしの身体に戻りましょう。
白目を剥いたまま、身体は小刻みに痙攣を続けていた。
その夜、航は信号の赤い色で頬を染める晴香を見ていた。
街灯もないこの交差点、唯一の明かりが信号だった。
信号待ちをする車もなく、この時間、人通りもない交差点、航は赤い光を晴香の左目にも見つけた。
「帰るね」
晴香は航の頬に右手を添えると、ふわりと交差点をわたりはじめた。
思っていたよりもひんやりとした晴香の掌を頬に感じた航は、晴香の言葉でスイッチが入ったかのように、踵を返してさっきまで晴香といたバーに戻った。
「おや」
どうして戻ってくるんだろう、と宙に浮くような声がカウンターの中から聞こえてきた。
自分でもなんで戻ってきたのか説明もつかない航は、さっきまでと同じウイスキーを頼んだ。
ふわりと歩き始めた藤崎晴香のことを知らないわけではなかった。
「ただ」
知っている限りの、
「いや」
ほとんど知らない、名前くらい、名字だけはかろうじて記憶にあった。
真ん丸の氷が沈んだ、浮かぶというより、たしかに沈んだウイスキーグラスが航の視線に入ってきた。
「ひとりごと、ひとりごと」
マスターは笑いながら軽くおかきの山もさし出してくれた。
それからほんの数分後だろう、
「戻ってきちゃった」
少し息を切らしている晴香がバーに現れ、航を背中から抱きしめた。
航が驚いて肩越しに晴香の顔を見ると、
「知っているわ。航に桜子さんがいることは。でも、いいじゃない、楽しみましょ」
そう言って、晴香は航と唇を重ねた。
腕を組み、タクシーに乗った晴香と航は行き先を告げると、また唇を重ねた。
「ほんとうのきみは誰なの」
「そうね、昼間のわたしでも、夜だけのわたしでもなくなったわ。ふたりは譲ることをしなかた。だから、ずーっと潜んでいたもうひとりのわたしがちゃっかり出てきて、ここにいるの。そして、少しだけ時間も戻してみたの」
航は意味を理解しようとはせず、晴香の首筋にキスをした。
ーあん。
ふたりを乗せたタクシーは、瑛太とひなのが戯れているはずのいつものお店に向かっている。そこには桜子も来ているかも知れない。
完
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