Archive for 8月 2017
きみのもしもし #506
ずっと眠らせていたカメラにフィルムを入れた。
フィルムを入れるのにひと工夫必要な、1950年代のそんなカメラだ。
いつでも目につくようにデスクの上、右斜め前に置いていた。
そのカメラのシリアルナンバーをあるサイトのハンドル名にしている。
そのくらい愛着のあるカメラ。
そのカメラの埃をきれいに拭き取り、フィルムを入れた。
昨夜のそんなぼくを見ていたきみが、今朝楽しそうに聞いてくる。
「どちらにお出かけ?」
いい表情だ。
きみの問いに答える前にぼくは準備の整ったそのカメラを手に取り、
ファインダー越しにきみを見た。
ピントを合わせる小窓、構図を決める小窓、ふたつの小窓を持つカメラ。
いつもよりシャッターを押すまでにほんのちょっとだけ時が必要。
「もしもし、懐かしいね」
うん。
かつてはこのカメラでどれだけの枚数、きみを撮ったことだろう。
ファインダーの向こうに付き合い始めた頃のきみがいた。
きみのもしもし #505
突然の雷雨は、みんなが楽しみにしていた今年の花火大会をないものにした。
不思議とここの花火大会は毎年直前に大雨に見舞われる。
しかし、打ち上げ開始時間の30分前には何事もなかったかのように雨雲は去り、
「ほら」「やっぱりね」と言いながらみんな河川敷を目指す。
そして花火大会は毎年開催されてきた。
「今年の大会委員さんたちはすごい英断をしたのよ」
早々と大会中止の知らせを耳にしていたきみは、
会場近くのワインバーの席を確保し、ぼくを招き入れた。
「ひとつ判断を間違うと、みんなの思いの行き場がなくなって大変だもの」
ぼくが到着するまでにワインが進んでいるようだった。
「今まで中止ってなかったから、前例作っちゃったし」
ほんのりと頬も赤い。
「ほら、今年は結局雨は上がんなくて」
きみは窓ガラスを濡らす雨を指差す。
そのきみの爪は打ち上げ花火模様に彩られていた。
ぼくは綺麗に彩られたその爪に、
きみがどれだけ花火大会を楽しみにしていたかを知らされる。
「もしもし、どこ見てるのぉ」
来年はきみの思いが、そしてみんなの思いが、空に届きますように。
きみのもしもし #504
きみが入院した。
大したことはないので、お見舞いは無用だと言う。
入院している顔を見せたくないのもあるだろう。
でも、ぼくとしてはそうもいかず、MINIに乗り込み病院に行った。
「来なくていいって言ったでしょっ」
やはりきみは少し怒っている。
それも承知だ。
途中で急ぎ買ったきみの好物の和菓子を差し出した。
「ごまかしてる」
でも、少しだけきみの表情が緩んだ気がした。
和菓子を口にしたきみは少しずつ饒舌になった。
大したことなくても、
入院はやっぱり寂しいよね。話し相手は必要なんだよ。
ぽくはきみのおでこに手をつけた。
「もしもし、違うと思うんですけど」
きみに笑顔が戻った。
きみのもしもし #503
小学生の頃、親父が帰国すると必ず母親に連れられて、親父の船に乗船した。
乗船して、神戸から東京、またはその逆を、船内で過ごした。
甲板に立ち、甲板を歩き、つま先立って甲板から海を見た。
たまに操舵室から先方を見せてもらえることもあった。
狭い廊下でも、天井の低い食堂でも、
見知らぬ大人に親しげに話しかけられたのを覚えている。
みんな優しかった。
一人で勝手に船内を歩いても不安になることはなかった。
あぁ母親だけはいつも心配していたな。
「もしもし、どうしたの?」
今日はきみと古い戦艦の見学ツアーにやって来た。
何も考えずに艦内に入ったけど、
親父の船と一緒だなと、ふと懐かしさがよぎった。
「一緒だ」
つい口にした一言。
不思議そうな顔をしたきみに、当時の母親の面影が重なった。